当神社の、由来をご紹介します。
宮中の怪異事件
今から約800年前のことです。人皇第84代順徳天皇の時代、建保2年(西暦1214年)秋、宮中に夜な夜な怪しく光る物体が飛来し、その時から、順徳天皇の皇女が病に床伏せられるという事件がありました。
その当時、宮中警護の任に当たっていた武将・本間三郎重光は、天皇の命を受け、家来の伴隼人とともに、その怪光物を弓で射落とすことにしました。毎夜、 その怪光物との格闘の末、弓の名手であった伴隼人が怪光物を射落とすことに成功しました。射落としたものを良く見てみると、その骸は野狐でした。
しかし、皇女の病は癒えませんでした。天皇は色々なことを試されました。医者に見せ、薬を飲ませ、神仏に祈り、加持祈祷を何度も何度もしました。でも、 その功なく、ますます皇女の病は重くなる一方でした。病の原因もわからず、対処の方法もなく、順徳天皇は酷く御悩みになり、陰陽博士に御相談なされまし た。博士の卜筮(占い)によると、これは射落とした野狐の祟りが原因であることがわかりました。
当神社の創祀
博士の提言により、本間三郎重光の領地であった三河国菅生郷に野狐の遺骸を送り、日本全国・六十余州の名山の土を集め、獅子形に仮山を築き、その面を宮中の方角に望ませ、野狐の霊を慰めるために稲荷社をおまつりしました。
すると、不思議なことに、皇女の病は癒え、すっかり元気になりました。天皇は、とてもお喜びになり、稲荷社の側に瑞生山総持尼寺という尼寺を建立しました。そして、皇女御自ら、尼僧となってこの寺にお入りになったのです。
建保5年(西暦1217年)8月23日、この総持尼寺の鬼門除けとして、あの野狐を射落とした弓弦を御神体にして、本間三郎重光の祖神、道臣命(みちお みのみこと)を勧請し、北野庄(現当神社鎮座地)に天神社を建立しました。これが当神社の御創建で、当時は伴天神とか弓弦天神と称されました。
菅原道真公の神夢奉齋
さて、時代は下って江戸時代、元禄3年(西暦1690年)のことです。、江戸亀戸天神の別当職・菅原信祐(すがわらしんゆう)という方が、大宰府天満宮の飛梅の木にて作られた菅公御神像を奉持し、大宰府より江戸へ向かう旅の途中、岡崎本陣中根甚衛門方に一宿されました。
その夜、信祐の枕元に菅原道真公(すがわらみちざねこう)が立たれ、こう仰せられました。「この岡崎の地に昔よりいいお社がある。そこに私を勧請しなさい。」
翌朝、信祐はこの神夢のことを主人に話しました。主人は「それはきっと北野の弓弦天神のことでしょう。」と言いました。この話を聞きつけた町中の人は、 大変感激しました。そして、天神社の社殿を一新し、神夢の通り、あの菅公御神像を合祀し、天神様をおまつりしたのです。そして社名を岡崎天満宮と改め、現在に至っています。